さて、このような差が与える影響について考えてみたい。まず日本について。歴史の断片を見てそれがすべてと思いこむため、偏った歴史観を持つこととなりやすいだろう。日本で受けの良い説のみを信じ、他を無視している姿が私には、旧ユーゴで今主勢を占めている“大セルビア主義”などの狂信的民族主義と重なるような感があり、背筋に冷たいものがはしる。考えてみれば、日本中が一斉に右に傾いたのはたった5・60年前のことである。この亡霊が生き続けている今、再び昔に戻ることも想像するにたやすい。
 次に韓国について。先述した幅広い教育は、評価に値すると思う。教える先生も教わる生徒も、いろいろな観点からものを見れるようになるだろう。歴史の流れがどこへ向かっているのかを捉えるには最高の手段だと私は思う。が、その姿勢が崩れている簡所があることが残念でならない。確かに、抑圧と屈辱を何度も受けてきた民族の苦しみがそうさせるのだと言われれば返す言葉もない。しかし、もう一歩踏み込んで、「なぜ自分たちはこのような苦しみをこうむったのか」と真剣に考えられないだろうか。日本の支配下に置かれた1910年以降、朝鮮半島各地でゲリラ活動をする勢力が現れたが、中国の国共合作のように団結することもなく、そのために抗日戦線も満足に張れなかった。これが独立を遅らせたとも言えるのではないだろうか。残念ながらこのことを彼らに聞きそびれたので、次の機会には必ずや…とたくらんでいる。
 韓国と日本の教育がどちらがどうとは一概には言えない。この度は短所を中心に述べたが、それぞれ長所も持っている。しかし、どちらにも共通して言えることは、歴史をただ一つの角度から見るのはあまりに危険だということだ。歴史とはその時代に生きたすべての人の思惑により積み重なる。それを固定して見ることは試験問題づくりには適していようが、これからの参考にはならない。今後国際社会はますます複雑化、多様化するだろう。「温故知新」の諺どおり、そこで役立つ歴史観を備えることは、今後の韓国、日本、そして世界を主役として動かしていく私達にとって、必須アイテムとなるのではないだろうか。』

03/09

 


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